Go!Go! 穴吹ホークス!

野村解任から5年、相変わらず、Bクラスからは脱出できていないホークスでしたが
戦力はずいぶんと、整ってきたのではないでしょうか。だが、しかし、現実は甘くなかったようです。

1983年のシーズン、投手陣の構成は、当時のスコアから読み取ると、開幕~開幕1か月頃は、以下ように、配置されていたようです。

先発(ローテ)  :山内トリオ(山内新一、山内孝徳、山内和宏)、藤田学
先発(谷間)   :井上
抑え       :金城
ロングリリーフ  :井上
中継ぎ(勝ち試合):井上
中継ぎ(負け試合):大坪、矢野、森口

このシーズンの序盤においては、山内新一、藤田学が途中でKOされることが多かったため、ロングリリーフに入る井上の負担は、少なくなかったように思います。
山内新一は、このシーズンで36歳で超ベテラン。いつ衰えてもおかしくない年齢であったとも思われます。藤田学も故障の影響などにより、衰えを見せ始めたシーズンではありました。
ベテランの山内新一はともかく、藤田学まで不調となったため、ローテーションの確立は大変厳しかったように思います。このシーズンは、ずっとこれが尾を引きます。

しかし、このように開幕ローテの2人(山内新一、藤田学)が不調になりながらも、7/16まで勝率5割を維持したことは、見事だと言えるでしょう。

また、打線を構成する多くの選手が中堅・ベテランの域に入ったため、夏場での得点力が落ちるのは、7月以降に勝てなる大きな原因の1つと思われます。穴吹ホークスの前の5年間(1978-1981年)で、自前(国産)の大砲が育っていなかったのは、実に大きな打線穴(ウィークポイント)ではないでしょうか。

ともあれ、1年目の穴吹ホークスは、投打ともに、貧弱な戦力でありながら、7月中旬までAクラス争いを続けました。このシーズンは、ライオンズがぶっちぎりで強かったため、シーズン早々に優勝争いからは、脱落してしまいましたが、シーズン当初から、着実に勝ち星を稼ぐことのできるチームに変貌しつつあるということを、「南海ファン」に示すことができたシーズンではないでしょうか。

穴吹ホークスの2年目へ続きます。


by 永遠のホークスボーイ



「広瀬叔功」監督、「ブレイザー」監督時代

 1977年、ホークスの顔でもあった「野村克也」が球団を去って以来、ホークスはBクラスにまみれていました。その後、ホークスを率いた監督は、広瀬叔功、ドン・ブラッシングゲーム(愛称はブレイザー)。広瀬は、現役時代、俊足好打でならした外野手で、ブレイザーは、野村も一目置く野球観を持つ「Thinking BaseBall(シンキング・ベースボール」の伝道者でした。

しかし、野村が去った余波は激しく、監督/選手・野村を失うだけにとどまらず、野村を慕っていた、リリーフエースであった江夏豊、外野のレギュラーで大砲候補・柏原純一が抜けた後では、誰が監督になっても、立て直しには、時間を要したと思われます。 まして、野村は、厳しい戦力でもやりくりをして、少しでも対戦相手より優位に戦おうとする知将でした。もともと戦力に乏しい当時の南海を野村が率いていたからこそ、常時Aクラスを維持できていたのだと思います。

その知将である野村が抜け、野村を慕う主力選手がぬけ、求心力がなくなった状態のホークスでは、勝つことすらままならなかったように、思います。

なので、「広瀬叔功」監督時代(1978~1980年)は、殊更大変だったように思います。 3年間の成績を見ると、3年間の前後期いずれも、5~6位でしたが、広瀬ホークスの最終年度である1980年の前期においては、4月終了時点で首位を維持していました。この点については、野村退団後、初めて現有戦力で勝てる可能性を示したと言えるかもしれません。ただ、戦力の層の薄さからか、健闘も虚しく、6月には5位に低迷していました。野村退団直後の3年間では、この成績が精いっぱいだったのかもしれません。

次に、ブレイザーがホークスを率いた2年間ですが、「南海ホークス」は、「超弱小」チームから、「弱小」チームへステップアップします。

ステップアップした要因は、3つあると思われます。

まずは、門田・藤原を中心とする打線が円熟期に入りつつあったということでしょうか。広瀬ホークス時代に芽が出始めた久保寺、河埜をはじめとする若手選手も、レギュラーに育ち、新井、定岡、片平を含む中堅選手も、安定して力を発揮していたようです。

2つ目は、後のWエースとなる両山内(山内孝徳・山内和宏)の入団により、先発陣が安定し始めます。ブレイザー政権1年目では、共にルーキーですが、弱投南海では、投手陣が手薄であったため、主力として働かなくてはならない状況だったようで、これは両山内にとっても、Wエースに育つ礎になったのではないのでしょうか。また、古参の山内(新一)、藤田学も元気でした。

そして、問題?の3つ目は、というと
西武・タイロンと名取和彦(1979年ドラフト1位)のトレードではないでしょうか。
トレードにより、タイロンが加わり、打線に厚みを増したブレイザー監督時代の2年間の勝利数は、53。この数字は、その前の広瀬監督時代の3年間では、届かない数字(42/44/48)でした。ブレイザーが指揮を執った1981年/1982年の2年間の戦績は、前後期いずれも5位/6位で、優勝争い絡むことはできませんでしたが、ホークスを着実に勝てるチームへと推し進めたのは、間違いないでしょう。

ただ、右の長距離砲が不在だとは言え、外国人の外野手である西武のタイロンと、前年度のローテーションの一角をになったドラフト1位(1979年)の名取をトレードするとは、当時の南海ファンも想定しなかったのではないでしょうか。当時のドラフト1位は今よりずっと大事にされた時代で、入って2年目のドラフト1位をトレードで手放すことは、過去に類を見ない暴挙とまで捉えた人も少なくなかったように思います。

南海球団は、「野村克也」が抜けてから、補強を含め、金銭的に渋くなったようなイメージがあり、戦力補強を金銭に頼れないとしたら、トレードという手段を選択することはやむを得なかったのかもしれません。
そのような球団の懐事情から、チームとして勝利を目指すためには、必要なトレードであったのだとしても、名取を出さずに済まなかったのだろうかと、思わずには、いられませんでした。
ただ、当時は、身売り説が常に囁かれていた時代でもあったので、早急に勝てるチームに作り替えるための策としては、やむを得なかったのかもしれませんが…(南海電鉄がホークス球団を保有してきたのは、当時の南海ホークスのオーナーである川勝傳の強い意志があったからのようです。「わしの目の黒いうちは、ホークス球団は、…」)

名取のトレードが不可解であると思えるのは、名取がローテーションの一角を担うドラフト1位の有望な将来ある投手であるこの他にも理由があります。

西武がタイロンのトレードに応じたということは、西武側がタイロンを同一リーグに出しても良い(問題ない)という判断をしていたとも、捉えることができます。
つまり、他チームに移籍して、西武と戦われても影響はないと判断していたのではないでしょうか。
そして、タイロンのかわる外国人として、西武は、テリーと契約したことからも、タイロンが前年程は活躍できないことを予見していたのかもしれません。

このようなことから、名取でなくても、別の選手や金銭でもトレードが可能だったのではないかとも、思えてしまいます。(穿った見方かもしれませんが)
「野村克也」が去った後の「南海」のトレードは、南海側に得するトレードが全くないと思えるほど、成果がないものばかりであったように思えますが、その一端が、このトレードにも垣間見えたような気がします。

打線が円熟期にはいりつつあったので、名取を失ってまで、タイロンを取るよりは、地道に、名取を含む現有戦力の底上げやった方がチーム力アップには、つながったような気もするのですが、長期間低迷していて、常に身売りの噂が絶えない弱小南海にそのような時間はなかったのかもしれませんね。

さあ、そんな苦境(超弱小チームから弱小チームへの格上げはあったものの、ドラフト1位は失う、タイロンも2年間で使えなくなくなる、前年である1982年の成績は通年でも最下位)の中、二軍監督として、牙ならぬ(鷹の)爪を研いでいた「穴吹義雄」が、満を持して、一軍監督して、登場しました。


by 永遠のホークスボーイ



穴吹ホークス、実は大健闘中の2年目(1984年)のシーズン

この年(1984年)、「南海ホークス」の指揮を執っていたのは、チームを「監督」「捕手」「主力打者」として支えていた「野村克也」が「監督」の頃から、長い間二軍の指揮を執っていた、「穴吹義雄」でした。

「穴吹義雄」は二軍で指揮を執っていた時に、ウエスタン・リーグではありますが、何度かチームをリーグ優勝に導き、一軍へも戦力を送り込んでいます。
監督としての素養は、十分に持ち合わせていると思われ、満を持して、一軍の監督に就任したと思われ、期待も大きかったのではないでしょうか。
現に、就任1年目の1983年も、最終的な順位こそ5位でしたが、首位ライオンズの独走を許したとはいえ、7/14まで貯金1を堅持し3位をキープできたことは、当時の薄い戦力を考えれば、十分に”善戦”した、と言えます。

また、私が「南海ファン」となった「1984年」のこのシーズン、「南海」は、スタートダッシュに成功していました。 (残念ながら、私が「南海ホークス」というプロ野球チームを意識し始めた時には、既に5位でしたが…)
これも、当時にホークスファンに、とてつもない希望を与えていたように思います。

何故は、次回説明します。


by 永遠のホークスボーイ



もしかしなくても、弱いのか? 南海ホークス

よ、よ、弱いのか?とてつもなく…

1984年、夏、漫画「あぶさん」の虜になった私は、すぐに、「南海ホークス」というプロ野球チームに興味を持ち始めました。

早速、当時、実家で取っていたスポーツ新聞(西スポ)に目を通すと、そこには、パ・リーグ6球団中、5位に低迷する「南海ホークス」の姿がありました。

当時の西スポ(今はどうかわかりませんが)には、セ・パ両リーグにおける各チームの直近10試合の戦績(●/○/△ x-x)が表記されており、「南海ホークス」の10日間の戦績は真黒の様子(実は前日まで引き分けを挟んで10連中)でした。

まあ、「あぶさん」で「南海ホークス」の弱さは、嫌というほど刷り込まれていたので、それほど、驚きはしませんでしたが、「予想通り」の弱さであったため、実は落胆と哀しみが大きかったのも事実です。

私が西スポを読み始めたその日は、ホークスの連敗ストップが大きく取り上げられ、立石選手の写真が掲載されていました。(確か、2塁ベースに滑り込んだ時か、2塁ベース上でガッツポーズをした時の写真だったように思います。)

この時、私は、”駆け出し”の「南海ファン」だったのですが、連敗脱出を心から、喜んでいました。しかし「南海ファン」になって、初っ端に目にした記事が大型連敗脱出だったので、大変なチームのファンになってしまったのではないか?、とも思っていました。
結果として、その心配は的中し、その後の長い長い弱小ホークスの歴史を追い続けることになるのでした。(「南海ファン」になってしもうたんやもん、しょうがないやないですか~~と、声を大にして言いたい^^)


by 永遠のホークスボーイ